夢への軌跡_今度は赤血球です。

20240331_今度は赤血球です。

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【今度は赤血球です。】

 

3月31日 日曜日です。

 

3月も終わりです。

快晴の年度末となる晦日となります。

 

暖かく過ごせそうな日曜日です。

私・お父さんも『やること満載リスト』からの

処理をしっかりと行なっていきます。

 

昨日は、かなりの心痛を伴っている

お母さん(監督)の買い物の手伝いでした。

 

今までは3人で訪問していたホームセンターも

お母さん(監督)との2人でのイベントとなり

小粒ちゃん(ネーネ・助監督)の影を追いかけています。

 

ちょうど、その時、

小粒ちゃん(ネーネ・助監督)の入院中の

病院から電話がありました。

 

このホームセンターに来ると

病院からの電話がかかってきます。

 

小粒ちゃん(ネーネ・助監督)が

呼んでいるのかも?

と思い出してしまうことしばしばです。

 

入院20日目 挿管19日目

ということで、今日のお題は、

【今度は赤血球です。】

です。

 

ホームセンターで、病院からの電話を受け

赤血球の数値が悪くなってきたので

輸血を行いたいという

主治医からの連絡でした。

 

赤血球は肺から取り入れた酸素を

心臓経由で全身に運んでいます。

 

その赤血球まで減少しているということは

何らかの原因がありそうですが、

投薬しているクスリの副作用が

大きく考えられます。

 

どのクスリが悪さをしているのか?

と確認するために赤血球を

輸血することとなります。

しかし、リスクも伴います。

輸血ですから、ショックも考えられ

このまま旅立つ可能性も高く

 

仮に奏功しても

肝炎や腎炎を併発する可能性も

あります。

 

なので、書面でのやり取りが必要となってきます。

午後の面会時間に

サインを行い、承諾しました。

 

『何が小粒ちゃん(ネーネ・助監督)にとって正解か?』

 

は、わかりませんが、

気管切開はしないという方針は揺るがないので

できる限りのことを行いたいと思います。

 

そのための採血で

改めて小粒ちゃん(ネーネ・助監督)を

苦しめているかもしれないのですが、

無事に生還してもらうためには

致し方ないイベントとなります。

【今度は赤血球です。】

とは、

ゆっくりと旅立たせたいという

私・お父さんの気持ちと

反対のことをしているような気がします。

 

まだ、無事生還という

夢を追いかけているのかもしれません。

にゃんにゃん。。

 

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いつも通りに英語レッスン受講です。

 

常に意識して

英語のレッスンを受けることで

亀のような足取りでも成果は得られるのではないか

と感じるようになりました。

 

そして、2024年もスタートから順調です。

習慣化としては、しっかり定着してきました。

忘れないように毎日レッスンを継続します。

無駄にできない毎日25分です。

 

ラッキーなことに

月一で日本人講師とのレッスンが可能となりました。

 

なので、

良くわからない表現を丁寧に

説明してもらうには

やはり、日本人講師のサポートが必要です。

 

習慣化すると歯磨きのようにレッスンを受けられます。

歯磨きレッスンが理想ですね。

 

『ムリ・ムダ・ムラ』は禁物ですね。

 

なにごとも   

『人生は、楽しんだもの勝ち!』です。

 

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常に前進です。

            

『迷ったら前へ、

 苦しくなったら前へ、

 つらくなったら前へ。 

 後悔するのはあとでいい。ずーとあとでいい。』

 

という言葉の通り、

進むべき道を間違えないように。。。

 

『ムリ・ムダ・ムラ』を排除しつつ。。。 

 

にゃんにゃん。。

 

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3月31日 日曜日です。

 

四半期末のイベントが終わりそうです。

4月1日はイースターマンデーとなるので

東京市場以外は動かないでしょう。

 

ノーポジで過ごす一日かもしれませんね。

 

備忘録は完成しました。

後ほどアップします。

 

にゃんにゃん。。

 

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夢への軌跡_FX_6通貨_相場環境認識・備忘録_20240324

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常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

#えふえっくす

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ありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

 

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。