<日本の速読> 日本人にはこの速読術が適していた

【<日本の速読> 日本人にはこの速読術が適していた】

耳寄り情報

 

2016年も終わりに近づき、

2017年はスタートからダッシュしようと

気合の入っている方も多いのではないでしょうか?

<日本の速読> を紹介しますね。

 

特に受験生にとっては、華僑となる1月ですね。

大学受験も2月10日から本番と言うことで

体調も気合も万全にしていきたいところです。

 

さて、今回、ご紹介する教材は、

フォトリーディングや速読というと右脳の開発が

必要となりますが、

どうも、日本人には適さないのではないかと

ささやかれています。

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というのも、日本人は右利きが多く、

左脳が長けている人が非常に多いと言われています。

従い、右脳を鍛える速読術よりも

左脳を鍛える速読術の方が、日本人には適していると

言われています。

それが、<日本の速読>です。

 

特に英語については、

どうしても、英語→日本語→イメージと

いう段階を踏むので時間がかかり、

受験やTOEICの試験では長文読解などで

苦労することが多いですね。

 

そこで登場する、『<日本の速読> 左脳速読術』です。

教材はダウンロード版と冊子版と双方あり、

ダウンロードであれば、すぐに手に入ります。

 

そして、訓練すること3日である程度の成果が

表れるという事実には驚愕しますね。

流石、『<日本の速読> 左脳速読術』です。

受験のための英語速読にも間に合いそうです。

更に、これは、

『<日本の速読> 左脳速読術』 ですから、

英語だけではなく、他の教科にも応用できます。

 

製作者は東大法学部出身であり、

その方法の実践者ですから、信頼性も抜群ですね。

 

では、ぜひ、2017年の受験突破のために

是非、お試しください。

https://fukuyama-syo.com/fw4p

 

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

 

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はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。