夢への軌跡_なりたい自分になるために

20161013_なりたい自分になるために

【なりたい自分になるために】

おはようございます。

仕事復帰です。
ゆっくり休むことはなく、
何かしら、体を動かしていました。
雨の日はPC、雨が降っていなければ、
体を動かしていました。
基本、皿洗い、掃除、壁紙修復、電球替えなど、
家の中での業務はお父さんの仕事です。

更に、庭の芝刈り、洗車、裏の雑草刈、をプラスして
最終日の昨日は、高圧洗浄機登場です。
我が家の駐車場はコケが生えてしまい、
雨の日はコケ臭くなるので、きれいにしました。

2時間、高圧洗浄機を動かしていると
手に振動が残りますね。
またまた、筋肉痛です。
20161013_jibunndaisuki
さて、今日のお題は、【なりたい自分になるために】です。
私は20代の頃、
『人生50年だな、好きなことをやっていこう。』
『生活は大事だから、お金を稼がないと。』
という感覚で仕事に取り組んでいました。

当時はパソコンが人気で、デスクトップPCは
ブラウン管の大きいモニターとなります。
まさか、こんなにPCの環境が整うとは梅雨知らず、
そんな大きなモニターを運ぶお仕事をしていました。

「バブル崩壊後」とは言え、
非常に景気の良いお仕事でした。
言葉を変えると『肉体労働』ですね。

30代の頃、仕事を変え、結婚し、子供が生まれ、
『それはそれは、とんちんかんな娘でした。』
義父母は非常に喜び、娘は毎日のように遊んでいました。

そのころ、私は色々なプログラムに参加し、
完全フリーランスのお仕事で
かなり安定した生活を送っていました。

そのプログラムとは、ナポレオンヒルプログラムです。
『改めて勉強しなおす時期に来ているかなぁ』と
今ごろ、頭の中を駆け巡っています。

フリーランスとは言え、企業に属しており、
このまま定年を迎えるまで働いても、あと15年程度です。

『本当にこのままで良いの?』と
自問自答することが多くなりました。

『人生計画を改めて考えよう。』と思い
生命保険のライフプランナーさんへ相談、
今回、その審査を受けることにしました。

特別、何をするわけではないのですが、
「生命保険会社は何を見てその人を信用するのか?」
興味津々でした。

すると、「何とか合格」とのことで
契約を書き換えることができました。

あと20年で(70歳くらいまで)
一つのビジネスを確立させようと考えています。

その後押しが、今回の『人生計画を改めて考えよう。』です。
過去に糖質制限の話をしていますが、
1年間の血糖値推移も人物評価になっています。

また、銀行だと、定期預金や積立なども人物評価になってきます。

『なりたい自分になる』とき、資金や保障が必要なとき、
バックアップしてもらえる材料を整えていくことは必要ですね。

今回、糖質制限によって、私の評価が上がったのは
言うまでもありません。
継続してきた成果が客観的に認められるとうれしいですね。

決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

毎日が成長であり、
昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。
ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

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前を見て後ろを振り返らないと
自分のあるべき姿が見えてきます。
https://fukuyama-syo.com/pdvv
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やっぱり ≪思い込み≫ っていけませんね。
自分自身の可能性は無限大です。
8の字を横にすると∞です。
中国の人の習慣を見習ってみましょう。
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今日も一日、頑張っていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。