夢への軌跡_共感することの重要性

20160719_共感



【共感することの重要性】



おはようございます。

今日のお題は【共感】です。


人と人とコミュニケーションには、色々な方法がありますよね。

しかしながら、根源は如何にして相手を理解するかとなります。

相手が何を伝えたくて、何を目的としているのか?

それを理解するためには自分を殺して

相手に共感することが必要ですよね。


リアルな家族関係、夫婦関係でも同様です。


相手の言っていることに耳を傾け

シェアできるようになること、

うなずくことができること、

が必要となります。


その間が必要なのですね。

即座に反論をすると、

相手の心の窓を閉ざしてしまい、

その後のコメントは何も聞き入れてもらえませんね。


パソコン越しでも同様です。

画面の前には人がいるということを

理解しなければいけません。

その人に対して伝えたい内容があっても、

相手の状況は理解できません。


そこで、自分のあまり伝えたくない過去を振り返り

相手と同じ土俵で話をすること

それが、パソコンを通じたコミュニケーションとなります。


今日の画像は松戸市内の昨日の夏空です。

雲一つない空です。

そろそろ、関東の梅雨明けでしょうね。



常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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今日も一日、頑張っていきましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。


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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。