夢への軌跡_残念な出来事

20161006_残念な出来事_走行距離編

【残念な出来事_走行距離編】

おはようございます。

昨晩は台風と思っていましたが、
千葉はそれほど、影響はなく
穏やかに朝を迎えました。

さて、1泊2日で仙台に向かいます。
毎週、毎週、良く走ります。

さて、今日のお題は、【残念な出来事_走行距離編】です。
先月(2016年9月)は良く出張に出かけていました。
特別、私が行きたいというわけではなく
業務上、仕方ないと思っていたのですが、
月末に走行距離も見て、自分でもびっくりでした。

なんと、月間走行距離、7400キロです。
『やばいかなぁ?』と
半信半疑で報告書を提出したら、
案の定、警告が到着しました。

「テリトリーが広いのは理解できますが、
公共交通機関を利用し、
スケジュールを上手に組んでください。」

『まぁ、仕方ないでしょうね。』
という本音です。

色々あって、私のテリトリーは広すぎるということと
交通の便が悪いということが重なっています。

東京から片道700キロとなると
岡山くらいまでいくような気配です。
東京と青森間は680キロ、
途中、寄り道をするとあっという間に800キロ。

さぁ、どうする?

どの管理職も当然ですよね。
月に7000キロも走行していれば、注意くらい出しますね。
私がその立場であるならば、
安全を考えて、同様のことをするでしょう。

しかし、営業としての私の言い分は、
効率を求めるため、また、密度の高い仕事をするため
車両で荷物を運んで、その場で解決を心がけているのです。

どうも、その辺りに齟齬があるようなので、
『ぼちぼち、テリトリーを変えませんか?』
「ん?何でですか?」
『一人では、賄いきれないテリトリーでしょ?
色々制限もあるようだし。』
「考えます。」
とのことでした。
20161006_zannnenn
来年からは、少し移動時間が短くなるかも、
たぶん、かも? でしょうか?

もともと、管理職が作った
テリトリーに無理があると知っておきながら
営業活動にクレームを言うのなら、
立てた計画が間違いですね。

非常に【残念な出来事】でした。
『来年から、自由な時間が増えるかなぁ~』と
ほくそ笑んでいるのは、私だけかも?

昨日、投稿したビデオですが、
社内でも閲覧者は10名に満たない様子です。
なかなか、変化を起こすのは難しい会社組織だなぁと
感じました。

その悪しき文化を変えないと。。。

時間のある時に、ビデオで確認してください。
約20分です。
⇒ 

決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

毎日が成長であり、
昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。
ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

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自分のあるべき姿が見えてきます。
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今日も一日、頑張っていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。