<長文読解メソッド>今まで、英語を頑張ってきたけど、模試での結果が期待通りではなかった息子さんを持つお父さんへメッセージです。

<長文読解メソッド> 今まで、英語を頑張ってきたけど、模試での結果が期待通りではなかった息子さんを持つお父さんへメッセージです。】

 

 

<長文読解メソッド>

 

息子さん:「模試の結果が思わしくなかったよ。」

お父さん:『そんなはずないだろ?あれだけやっていたんだから。』

息子さん:「英語で足をひっぱっちゃって。」

お父さん:『まぁ、気にするな。まだ時間はある。』

 

と、気落ちした息子さんに声をかけるお父さんも

自信がないのが、ばれてしまいますよね。

<英語>と聞くと蕁麻疹が出てきそうなくらい嫌いだった

あの頃を思い出しますよね。

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はじめまして、福山 紫生(Syo Fukuyama)と申します。

 

「英語で足を引っ張る」という何気ない会話ですが、

これは、長文読解が読み解かれていないということが言えます。

この解決方法は

<長文読解メソッド>です。

理由は、読む速度が遅かったり、

内容が、把握できていなかったり、

苦手分野の記事であったり

と背景は様々ですが、

息子さんは、今まで、かなりの量をこなしているはずです。

『出来ないわけがない』と思うのもあながち

間違いではありません。

ですから、<長文読解メソッド>が必要なのです。

長文読解さえ、完璧なら

確実に模試の合格ラインをクリアできますね。

<長文読解メソッド>

1日2時間、14日間の時間を割いて

少し、コツを学びませんか?

 

俯瞰的にものごとを見るということは

良く言われますが、

英語の試験であったって、同じことです。

 

和訳する必要性のない、英単語の丸暗記も必要ない

そのような、問題の本質にアプローチする方法です。

<長文読解メソッド>です。

ちょっと、覗いてみませんか?

センター試験は1月中旬、

本番の試験は2月10日から。

<長文読解メソッド>が役立ちますよ。

そして、息子さんにプレゼントしてあげてはいかがでしょうか?

https://fukuyama-syo.com/8i7y

 

 

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福山 紫生

 

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。