夢への軌跡_ノウハウコレクターと呼ばれた時代もありました。

【ノウハウコレクターと呼ばれた時代もありました。
レビューしてみると、この教材で打ち止めでした。
株式会社proceedの角谷亮さんが作った
コンテンツであるBMTSProgramで
必要十分条件を満たしています。】

はじめまして、福山 紫生と申します。

 

私は過去2年間で約200万円を投資して、

ノウハウコレクターと呼べるほどまで行き着きました。

20161223_nouhaukorekuta2

「手っ取り早く」

「自宅で30分」

「電車の中のスマホで・・・」

などなど、

甘い言葉に揺るがされて、購入してみると

途中で消えて行ってしまう販売者の方もチラホラありました。

 

また、中には、非常に重いコンテンツであり、

これをすべて学ぶには、「1年以上はかかるでしょう。」と

思うような教材もありました。

20161223_nouhaukorekuta

このBMTSProgramは、購入してから

まだまだ3ヶ月を経過していませんが、

収益が発生しています。

 

もはや、このペースで進めば、

今まで夢と感じていた内容が、夢ではなくなり

前を歩いている先輩の姿も見えてきました。

 

なぜ、このようなことが起こるのか?

なぜ、収益がしっかりと発生するのか?

 

しっかりとこの3ヶ月をレビューしてみると

  • 会っています。
  • 仲間がいます。
  • 協力できます。
  • 相談できます。
  • 助け合います。
  • 楽しくなります。
  • 一人ではないです。

 

という7項目が浮かんできました。

 

他の教材は、売りっぱなしでした。

仲間は作れませんでした。

常に一人で戦っていました。

挫折しました。

諦めました。

20161223_nouhaukorekuta1

という悪循環があったのですが、

この教材では本当に仲間ができました。

 

そして、販売者である角谷亮さんにも会いました。

握手もしました。

話しました。

熱い人でした。(笑)

 

一人でコソコソやっても

なかなか、一般人では、難しいですね。

いろいろな教材を買い漁るのも良いかもしれませんが、

これで打ち止めにしましょう。

20161223_bmts

BMTSProgramです。

http://ibasa-cx.jpn.com/mbiz/index.html#technique

 

 

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福山 紫生

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。