夢への軌跡_我が母親ながら残念かも・・・

20161030_我が母親ながら残念かも・・・

 

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【我が母親ながら残念かも・・・】

おはようございます。

日曜日ですね。久しぶりに土日の連休です。
体を労わってきました。
昨日の1時間のマッサージは、いつものお兄さんで
非常に快適な時間でした。
鼻水が出ていたのでうつ伏せは厳しかったですが、
「鼻水より背中を労わらないと血流が悪くなる」
と思い、少々の時間の我慢でした。

いやぁ、快適でした。
ほぐれた感が満載でした。
また、月曜日から頑張れるかなぁと思います。

さて、そんな至福の時に、我が母より、
自宅に電話がありました。

今日のお題は、【我が母親ながら残念かも・・・】です。
内容は、「無事に退院しました。」ということですが、
まぁまぁ、日頃の話相手がいないためか
私の妻を捕まえて、色々と話をしたようです。

娘の病状も芳しくないため、
早めに電話を切って、次の作業に入りたかったのですが、
なかなか、嫁としては、電話を切ることができなかったようです。

10月24日月曜日、私が電話をした時は
「まぁまぁ、元気です。調子は思わしくありません。」
という内容であったのです。
ご近所さんの悪口を、聞かされた私は、気分が滅入るほどとなり
『年齢を重ねるとこんなもんか?』と半ばあきらめ気分で
悪口、愚痴を聞いていました。
最後には、「ざまーみろ」とご近所さんの苦労を喜ぶ言葉を
吐き、私は、更に閉口気味となり、電話を切りました。

26日水曜日には、「救急車で運ばれた。」との連絡があり、
何かと思えば、駐車場のタイヤ止めに躓いて
膝をパックリ切ってしまい、痛くて歩けないとのことでした。

電話の内容から、運ばれたは良いものの、
着替えやら消耗品やらの準備で80を超えた父親は
大慌てであったようです。

私も、風邪をこじらせていることと、体力的に厳しいと
理解していたため、『行かれない』旨を伝えて、
電話では元気そうであったので、
『入院してゆっくり過ごせばよい』と伝えました。

大事にならなくてよかったのですが、
至福のひと時を終了後、妻より連絡があり、
「退院したっていう電話があったよ。」
とのこと。
家に戻る車の中で、電話をかけ、
『退院、おめでとう』と言うと
「お騒がせしました。」という我が母親のセリフ。
その後、入院中の看護師や医師の悪口が始まりました。

途中で遮って、
『人の悪口ばかり、言わない方が良いよ。
月曜日に「ざまーみろ」なんて言ったから
天罰じゃないの?軽傷だから良いけど、
自分の身に降りかかるよ。』
と、言ったら、
「悪口を言わなければ、ストレス解消にならないでしょ」
『その分、自分が痛い思いをするんだよ。
人のアラばかり探しているから、良いことないんじゃない。
少しは、改めた方が良いんじゃないの?』
「もう年だからしかたないのよ。」
『そのセリフ、30年前から聞いているよ。
78にもなるんだから、マイナスの方向ばかり見ないでよ。』
「もうあなたの前では言いません!」
と言って、電話が切れました。

呆れた母親です。
聞いてあげるのも息子の役目とは思いながらも
人の悪口や愚痴ばかりを聞かされる方としては、
後味が悪くなってしまいます。
また、「都合が悪くなると自分から電話を切る」という
我儘放題の母親に、まさしく閉口しました。

もう少し、前向きに考えてほしいものです。
何事も、謙虚さと前向きな考えがあれば、
人生楽しく、貢献度も高く、充実した時間が過ごせると
思うのですが、年老いた母親に伝えるのは難しいですね。
20161030_hahaoya
現状を把握し、折を見て、改めて伝えるつもりです。

決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

毎日が成長であり、
昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。
ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

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今日も一日、頑張っていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。