夢への軌跡_40代の転職とは?

20161018_40代の転職とは?

励みになります。応援をお願いいたします。

社長ブログ ブログランキングへ

【40代の転職とは?】

おはようございます。

今日は火曜日ですね。
やっと、自宅に戻ってきました。
独り言を言わせてもらえれば、
『しばらく休みがない。(涙)』
どこまで持つか?
水曜日は健康診断なので、勤務とは言え、
少し、気が楽かもしれません。

さて、今日のお題は【40代の転職とは?】です。
今年に入り、友人知人の同世代が会社を辞めました。
私の所属する会社から3名以上、知人は数名です。
色々事情があるとは思いますが、
少し整理してみました。

代表的な3名をピックアップしてみます。
Aさん 女性 既婚 子どもなし
Bさん 女性 独身
Cさん 男性 既婚 子ども二人

3名の内、2名は病気持ち、若しくは寸前でした。
病気とは『鬱』です。
Aさんは、診断済み、かなりきつい投薬をされているようでした。
Cさんは、『鬱』になりかけそうだったので、自ら選択して退職しました。
Bさんは、女性、独身、バイリンガルという鳴り物入りでした。

恐らく、Bさんは、外資系のステップアップで
退職してからでも、次のお仕事はなんとなくでも見つかるでしょう。
やはり、英語力は強いですね。

Aさんはご主人がお仕事をしているので
専業主婦という選択肢もあります。

Cさんの場合、奥様がお仕事をしているので
大きく困ることはないと思いますが、
今までの男性としての収入が無くなってしまうので
家族には非常に厳しい状況だと思います。
特にCさんは、40代で英語もそれほどではなく、
外資系では、合格点を出してもらうことは難しいかもしれません。

多くの40代の会社員の方は、
夢を叶えるため、今の環境に我慢できないため、など、
理由があって、退職してしまう場合がありますが、
その反動で、現状より良い収入を得られる企業への就職は
厳しいと言わざるを得ません。

独立の場合は別ですが、
転職となると、それほど楽ではないのが現状ですね。
転職先の環境が現在の企業と比較をして『かなり良い』という
ことは、なかなか、ないそうです。

『辞表』を提出するときには、もっと、じっくりと考えて
感情論で前進するのは、やめた方が無難です。
特に妻子持ちの方には。

『では、どうするのか?』

これは、一つのアイデアですが、
現状のお仕事で、不平不満があっても
『伝家の宝刀は持ち出さず、他にキャッシュポイントを探す』
という方法が良いと思います。

今や、インターネットを利用して、
さまざまな勉強方法やお仕事の紹介があります。
また、インターネットでのビジネス展開も可能性が高いです。

二つ目の収益の源を開拓するべく、
自己投資した方が良いのではないでしょうか?

私の個人的な見解ですが、
現在のお仕事で確実に収益を得て、(生活を安定させて)
+αで自己投資を行って、将来の設計図を作る。

早急な結論を出すと、路頭に迷う危険性が伴いますね。
20161018_tenshoku
決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

毎日が成長であり、
昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。
ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

――――――――――――――――
二つ目の収入源を探してみましょう。
まずは、無料からスタート
https://fukuyama-syo.com/pdvv
――――――――――――――――
やっぱり ≪思い込み≫ っていけませんね。
自分自身の可能性は無限大です。
⇒ https://fukuyama-syo.com/60bt
――――――――――――――――

今日も一日、頑張っていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。

*****************************************

Facebookもやっています。
お気軽に友達リクエストをお待ちしております。
https://www.facebook.com/fukuyamashow

ホームページ準備中です。

夢への軌跡

ブログランキングを始めました。
よろしければ、応援をお願いいたします。
https://fukuyama-syo.com/5mrd

*****************************************

福山 紫生(Syo Fukuyama)

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。