夢への軌跡_人間ウォッチング

20160715_人間ウォッチング



【人間ウォッチング】


おはようございます。


今日のお題は【人間ウォッチング】です。


昨日、出張の為、朝早くから電車に乗り、

東海道新幹線を利用しました。


久しぶりの東海道新幹線であったので、

時間に余裕をもって、

東京駅まで行き、乗り込みました。


在来線で、たまたま、色々な人を目で追ってみたところ、

まぁまぁ、それぞれ、個性があるなぁと感じました。

スマホで情報を得ている人

本を読んでいる人

寝ている人

小型機械でゲームをしている人

などなど。

色々な時間の過ごし方がありますね。


その表情を見ていると

楽しそうにしている人、

悔しそうにしている人、

やる気のなさそうにしている人、

疲れ切っている人

などがいて

本当に日本人は良く働くなぁと思いました。


中でも楽しそうにしている人は

自分の世界に入っていて

本やゲームでどっぷり浸かっているタイプです。

だから、楽しいのかもしれませんね。


疲れ切っている人は、

寝ているという状況ではなく、

寸暇を惜しんで休息を得ているようです。


私は、【人間ウォッチング】によって

楽しそうに映っていたことでしょう。


日本のビジネスマン、がんばるのだ。



常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!


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今日も一日、頑張っていきましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。


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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。