夢への軌跡_娘の病状について

20160927_娘の病状について

【娘の病状を考えて】

おはようございます。
火曜日ですね。
今日は資源ごみと燃えないプラスチックごみの収集日です。
しっかりと、家事を行っているお父さんです。(笑)

さて、今日のお題は【娘の病状について】です。

低出生体重児で誕生した娘は
10年を経て、後遺症に悩まさせることになりました。
病名は、【小児てんかん】です。
その障害と闘うべく、家族で努力していますが、
色々と付随する病名を追加され、『???』となっています。

2016年4月3日、大きな発作を起こした娘は
大学病院へ運ばれました。
既に、病名は理解していたものの、その日は
理解に苦しむほどの発作でした。

合計5回の発作に見舞われ、
一緒にいた私は、『やばいな』と腹をくくったほどでした。
『致し方ない』と覚悟を決めて、入院に付き添い、
お母さんと交代で宿泊し、
薬を変更し、さまざまなありとあらゆる手段で現在に至ります。

しかし、入院の翌日から「ケロッ」としている娘に
『大丈夫?』と声をかけると
「お父さん。お腹すいた!」という返答でした。

入院直前の状況では、食事が一切できるような状態ではなく
その言い分も理解できました。

幸い、近くにコンビニがあったので
夜中におにぎりを買いに出かけたのを覚えています。

あれから、半年。
春の学校生活では、色々と問題もあり、
生活するのに苦労が絶えなかった娘も
現在は、元気に学校生活を過ごしています。

薬の量についても、
主治医を相談し、量を増減したり、
他の薬剤を増やしたりと
さまざまな情報を取り入れ、
主治医への情報を提供して
QOL向上を行えるよう過ごしています。

病院関係者に対しては、非常にうるさいオヤジです。
先日の投稿で伝えた通り、
「お父さん、大好き。」
「お父さん、かっこいい。」
と言われると、どうしても、
お父さんとしても限界に挑戦すべく、努力しています。
これは嘘なしです。(笑)
自分の子供の応援団長であることを自負しています。
20160712_soudanaite
仕事柄、人の命に接しているため
生きたくても生きられない事故に遭遇した患者さんや
間違って、命を絶たれてしまう患者さんを目にしています。

娘にはこのようなことのないよう、
父親として努力して、人生を楽しんでもらいたいと
考えています。

逆に、私も人生を楽しむために投稿を続けていきます。

5月にFBを開始してから色々なコメントが届きます。
不愉快と感じられる方は、
私・福山 紫生(Syo Fukuyama)をブロックしてください。
私は娘を守るために、努力して
薬代を稼がなければなりません。

これが父親の私にとって、大きな目的です。
更に他の目標もたくさんあります。
納得のいかない、不愉快と感じる方は
どうぞ、遠慮なくブロックをお願いいたします。

私の活動は、大きな目的のために前進しています。

毎日が成長であり、
昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。
ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

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一生、サラリーマンで終わっても
定年後には新たな労働が待っています。
今のうちに勉強して飛躍しましょう。
https://fukuyama-syo.com/tcq1
――――――――――――――――
やっぱり ≪思い込み≫ っていけませんね。
自分自身の可能性を自分で閉ざしちゃう。
あなたの可能性試してみませんか?
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今日も一日、頑張っていきましょう。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。