夢への軌跡_教えるということ

20160806_【教えるということ】

【教えるということ】

昨日は晴天の千葉県内、熱中症の注意報が

発生されるくらいでした。

私も海岸沿いの顧客へ訪問し、塩の香りを楽しんできました。

さて、今日のお題は【教えるということ】です。

今日はある新人さんとの終日同行でした。

業界初であるため、丁寧に伝えましたが、

非常に好青年という印象を受けました。

今後、知識を習得していけば、

顧客に愛されることでしょう。

車中、色々な話をしました。

私にとっても、チームにとっても、

久しぶりの新人さんなので

スケジュール、面談の流れ、訪問の仕方

などなど、話題は多岐になり、

ほぼ、伝えられることは

終わったかなぁと思ったときに

私の知っている内容に

食いつき気味であったので

継続して、考え方を伝えました。

【信頼関係】【依存と自立】【相互依存】【刺激と反応】

など。

自分がこちらに投稿することにより、

自分への学習効果が上がると考えていましたが、

対面で人に【教えるということ】に

更に自己成長へつながると確信しました。

自分の成長には、相手は欠かせず、

【教えるということ】は自己成長へ

確実につながっていると実感した日でした。

そして、話し過ぎたせいか

体重も減少し、少し、びっくりするくらいでした。

糖質制限でお昼は牛タン定食をいただいたのに。

もちろん、ご飯は新人さんに差し上げました。
毎日が成長であり、

昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

――――――――――――――――

やっぱり ≪思い込み≫ っていけませんね。

自分自身の可能性を自分で閉ざしちゃう。

あなたの可能性試してみませんか?

20160806_gyutan

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今日も一日、頑張っていきましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。