夢への軌跡_ネギの投稿です。

【ネギの投稿です。】

 

先週、突然の義父の逝去から

我が家で問題視されているネギの収穫。

 

収穫しても、市場に出していたのは義父

であったので、行き先が困っているネギたち。

昨年までは、ネギを収穫して、綺麗にして

白ネギにして、5kgにして

販売していました。

 

もちろん、人手があったし、義父が

がんばっていたので、部分的に私も

手伝いました。

 

しかし、義父亡きあと、

ネギの収穫すらままならない状態です。

ネギ坊主が出てくると、固くなって

販売できません。

 

ネギ坊主が出る前に収穫して、

販売したいのです。

 

人手がないので5kg単位で、泥付で。

 

俗にいう【泥ネギ】です。

一般家庭では5kgは多いでしょうね。

 

土があれば、埋めておくことで保存可能です。

 

料理メニューとしては、

まずは、洗って、皮をむいて生食(なましょく)、

味噌汁、BBQ、焼ネギ、煮物のお供に、

鍋にドボンと

ネギ三昧なんていかがでしょう。

糖質セイゲニストとしても、

ほとんど、糖質はないので、太りません。

 

柏ネギ、大放出です。

金額は、検討中ですが、

送料・税込2000円を予定しています。

 

本日、依頼された方へ発送しましたが、

葉付きなので、7kgくらいは、入れちゃいます。

 

 

ご希望の方は、直接メッセージをくださいね。

 

まだ、リサーチの段階となりますので

ご協力くださいますようお願いいたします。

 

 

今を悔いなく。常に100%で。

今日も一日、頑張っていきましょう。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

 

――――――――――――――― 

 

決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

 

毎日が成長であり、

昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

 

常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

#2017革命

 

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いつも、「いいね」と「コメント」を

ありがとうございます。

 

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

 

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。