夢への軌跡_英語は必須ですね。

【やっぱり英語は必須ですね。】

 

 

小粒ちゃんから相談がありました。

 

「ねぇ、お父さん。どうやったら

 お父さんみたいに喋られるようになるの?」

 

『ん? 経験と努力かなぁ?』

 

「学校の英語の先生で●●先生なんだけど

 発音は上手じゃないし、話すスピードが速くて

 わかんないんだよね。」

 

『なるほど。小粒ちゃんの目的は何?

 話せるようになること?

 それとも試験で良い点を取ること?』

 

「私はね、両方なの。

 オリンピックがあるでしょ?

 その時に、外国から来る人達と

 話したいの。」

 

『それじゃぁさぁ、

 ●●先生の授業も大事だし、

 英語を話す時間も必要だと思うよ!』

 

「昔さぁ、マンツーマンの外国人の人と

 授業したじゃない。それでしょ?」

 

『そうだよ。どこにもいるでしょ?

 外国人は。

 片っ端から、ハロー!ホエアーユ―フロム?

 って聞いてみたら?』

 

「そうか、通学中に話しかけてみれば

 良いんだ。」

 

なんて会話をしていました。

 

お父さんは、

TOEIC750点を有していますが、

日常会話程度で、中学生の文法程度です。(笑)

 

しかし、話そうとする意識があれば、

英語なんて、話せるんですよね。

 

点数で評価することが多いですが、

実は、やる気の力ですね!

英語については、

いろいろ学習方法はありますが、

路頭に迷うことも多く

しっかりと道筋を示してもらえます。

私としては、小粒ちゃんに英語を

嫌いではなく、学んでほしいと考えています。

 

日本の英語教育は、ちょっと間違っている

と感じている福山 紫生(Syo Fukuyama)です。

 

 

こちらを購入して小粒ちゃんに

与えたいと思いました。

https://fukuyama-syo.com/qtgp

 

 

今を悔いなく。常に100%で。

今日も一日、頑張っていきましょう。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

 

――――――――――――――― 

 

決断するということは、引き返さずに前進あるのみです。

 

毎日が成長であり、

昨日の自分より今日の自分が成長しているはずなのです。

 

常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

#2017革命

ありがとうございます。

 

*****************************************

 

福山 紫生(Syo Fukuyama)

 

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。