夢への軌跡_脱・糖尿病薬

脱・糖尿病薬

糖尿病薬から逃げられないと

思っていませんか?

 

こんにちは。

 

2015年10月の健康診断で「2型糖尿病」と診断された

私・福山 紫生(Syo Fukuyama)です。

 

2015年12月の二次検診以降、素晴らしい医師に巡り合うことができ

現在2017年2月ですが、下記のような結果となっています。

 

◆体重

 76㎏ → 64㎏ マイナス12㎏

◆ウエストサイズ

 86cm → 79cm マイナス7cm

◆空腹時血糖

 150mg/dl → 110mg/dl 

◆薬

 現在、糖尿病関連の薬は飲んでいません。

 もちろん、インスリン注射もしていません。

 

という結果を生み、

数値を維持、【糖質制限】を継続して

健康を回復しています。(笑)

 

体重が軽くなったことで、

ひざ、こしなどの痛みも軽減し、

嬉しかったことは、

10年前に着用していたスラックスなど

かなり昔に着用していた衣類が、

再び着られるようになったことですね。

 

多くの方に、「どうして? なんで?」と

聞かれるので

素晴らしい医師から紹介された内容を

お伝えいたしますね。

 

多くの方がご存知の言葉である、

【糖質制限】です。

 

私・福山 紫生はこれだけで、

痩せて健康的になりました。

 

そうです。私・福山 紫生は

【糖質セイゲニスト】です。

 

俗語ですが、

【糖質制限】をしている人という言葉ですね。

 

かなり、

この【糖質制限】は誤解を生んでいるようなので

巷での情報には注意が必要です。

 

しっかり実践すれば、結果が付いてきます。

これだけは、事実なのでお伝えいたします。

 

そこで、この【糖質制限】を実践したいけど

何が正しい情報なのかが、

わからないという人も多いので

あなたに対して、情報発信をしたいと思います。

 

『あと5kg痩せたいなぁ』

『いやいや、3kgで良いなぁ』

と考えているあなたにも

正確な情報をお伝えいたします。

 

そのためのメルマガ配信(無料)を

行うこととしました。

概ね、理解できる人は、

正確な情報をしっかりとつかんでもらって、

実践すれば、成果は伴います。

 

ご興味のある方は、ぜひ登録をお願いいたします。

 

こちらです。

https://maroon-ex.jp/fx23418/fx8mM1

 

 

では、メルマガでお会いしましょう。

 

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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。