夢への軌跡_英語教育

20160724_英語教育



【英語教育】


おはようございます。

今日はゆっくりとした日曜日でした。

起床も7時と普段と比較するとゆっくり。

暑くなく、寒くなくと過ごしやすい千葉県の朝です。


さて、今日のお題は、【英語教育】です。


日本では、中学生になると英語を必須科目として

生徒へ教えられていきますね。

今では、小学4年生から始めている学校もあるようです。

海外では、どうなっているのか

確認してみました。


ポーランドの友人が多かったので

聞いてみると、小学生になったときには

全ての科目が英語で行われているとのことでした。


ですから、当然、小学校卒業時には

バイリンガルになっているわけです。


また、陸続きのヨーロッパなので

外国の人との交流も多く、

英語が主流とのことでした。

その方は、大学から英国へ

そして、卒業後、日本へ来られた英語の教員となります。


米国、英国出身の方々は英語が主流であるので

バイリンガルになるためには、それなりの努力が必要です。

日本も同じですね。

一方、地球上でもっとも多くの人に話されている言語は

中国語となります。

方言はいろいろありますが、根本的な言語としては

人口が多いので、中国語ですね。

中国の方も、英語を必須として海外進出を狙っています。


では、日本ではいかがでしょうか?

英語を話す人は多くなったと思いますが、

なかなか、人前で話す人は多くないですよね。

電車の中で、英語を話していると

結構、見られますよね。

日本人は中学から高校まで最も

勉強する期間が少なかったとしても

6年間、あります。

ということは、かなり、話せる語彙力はあります。

あとは、話す勇気のみであるかもしれませんね。

先日、FBでロシアの方とチャットをしていた時、

平気で、I’m live in Russia.と返ってきました。

文法上は間違いですが、通じますよね。


もっと、積極的に、外国人とすれ違ったら、

英語で話してみることをお勧めします。

少しの勇気が、すごい自信になると思います。


少しでも多くの情報を手に入れ、

時期を見計らって、

自己責任で変化することが必要です。

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常に前に。

ついてる!ついてる!ついてる!感謝です。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


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やっぱり思い込みっていけませんね。

自分自身の可能性を自分で閉ざしちゃう。

あなたの可能性試してみませんか?

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今日も一日、頑張っていきましょう。

最後まで読んでいただきありがとうございます。


いつも、「いいね」と「コメント」をありがとうございます。


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福山 紫生(Syo Fukuyama)

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ABOUTこの記事をかいた人

はじめまして 福山紫生と申します。 千葉県松戸市生まれで 幼少期は東京都立川市で育ちました。 中学時代はサッカー部でした。 ポジションはスウィーパーという ゴールキーパー前の掃除人でした。 当時の体は170cm、80kgという サッカーにはふさわしくない体形をしており、 試合中、相手にけがをさせてしまい 救急車を呼んだこともありました。 チームメートからは「重戦車」とも呼ばれていました。 高校時代は一変し、帰宅部となり 受験勉強に勤しみました。 毎日のスケジュールをしっかりと立て 当時、テレビを見るという悪い癖を克服するために 帰宅後、18時から22時までの4時間を睡眠時間とし ゴールデンタイムにテレビをつけることもなくなりました。 22時から夕食、23時から明け方まで勉強をし、 オールナイトニッポンというラジオ番組が友達になりました。 無事、高校3年11月で早稲田大学の推薦をもらい その後は、自動車、オートバイなどの運転資格免許をとり 親の車を乗り回して、遊んでいました。 大学時代は、ミーハーサークルに所属し テニスやスキー、アルバイトに勤しみ、 勉強については、それほど、力を入れていませんでした。 早稲田大学を卒業後 株式会社ダイエーへ入社し、2年で退社しました。 ここにいても「自分らしさを出すことはできない」と 思ったからです。 その後、運送業を行い、体調を崩し、6年で廃業しました。 そして、医療器械の国内輸入商社へ入社しました。 国内医療機器の販売を行う際の2年目に ナポレオンヒルプログラムを学び、 成績優秀者として、表彰されたこともありました。 自分は順風満帆の会社員生活を送っていたと思っていました。 しかしながら、考え方が大きく変化したのは 2002年に子供が誕生したときです。 誕生時、未熟児、且つ様々な病気をもって 生まれてきた娘は3か月の入院後、退院してきました。 その間、仕事が手につかず、お休みがちになっていましたが、 会社からは「君の代わりはたくさんいる。」と告げられました。 このとき、自らが会社に貢献していないと、 「いらない」と言われてしまうんだなぁと感じました。 娘は完全治癒では、ありませんでしたが、 世話を嫁に任せ、私は日常業務に勤しみました。 娘は10年間後遺症は出ませんでしたが、 2012年に後遺症が発生し、現在も通院治療を行っています。 その後遺症が障害となり、苦しむ中、 父親としては、時間とお金のかかる 娘の治療に専念したいという思いから 挑戦し続けています。 2011年に国内商社から外資系商社へ転職し、 そして、現在に至ります。